その他の天変記事

 2003年の夏,京都文化博物館にて「安倍晴明と陰陽道展」が開かれ,筆者たちもささやかな出展をし,また大阪の阿倍王子神社と京都の晴明神社に伝わる有名な肖像座画に出会えました。2つとも想像以上に大きくまた鮮やかに描かれていました。彼の後半生の記録は意外に多く藤原實資の「小右記」や道長の「御堂関白記」も公開されていました。以下はそこでもらったパンフレットを資料にしています。
 晴明が天文博士に任じられた天禄三年十二月六日(=973年1月13日)とその翌年の天禄四年一月九日(=973年2月14日),に天変による天文密奏が行われています。密奏ですから詳しいことはわかりませんが,それに見合う天変をPCで計算しながら探してみましょう。このころ日月食はありませんが,ひとつは金星と火星の動きです。前年12月から3月にかけて,金星と火星が日没後の西天で離散集合していくようすが見られます。972年12月2日にやぎ座にて接近した後,みずがめ・うお・おひつじと移っていき,973年3月25日におひつじ座で再会します。その間の1月,2月には両星は離れていましたが,異様な動きが目を引いたのではないでしょうか。
 もう一つの可能性としては木星(下図緑矢印)のおとめ座θ星(4等星)への犯すなわち異常接近です。972年12月に木星はおとめ座を東進(順行)中でθ星に次第に近づいていきます。ところが翌年1月10日ころから2月初までこの星のすぐ西側でほとんど動かず停止しているように見えます。そしてその後は離れていく,すなわち西へ移動(逆行)するのです。逆行は5月中旬まで続きその時はγ星(下図黄矢印)あたりに達します。その後はまた順行に転じますが,上記の天文密奏は時期的に木星の留(停止)に当ります。火星や木星の留は中国では紀元前から注目され記録されていた天文現象で,晴明もきっと知っていたでしょう。現在私たちは「惑星は太陽に近いものほど速く公転する」ので,上記の事件は地球の公転が木星の公転運動を追い越していくために起こる現象であるということを知っていますが,それはこれより600年後17世紀初にケプラーによって発見された法則によるもので,古代では天変と思われていました。

 また天延二年十二月三日(=975年1月17日)にも天文密奏を行っていますが,そのころの天変としては1月15日の日食と30日の月食があります。しかしこの日食は日本では日没後,月食は昼間,ともに地平線下なので見られません。前年末から金星と木星が接近していて,1月中旬には夜明け前に東南の空アンタレスの北に見られます。10日には細い月も一緒に見えたはずです。彼はこの4天体の集合を天変としたのでは・・・もっとも流星,彗星,新星の可能性もあります

 花山帝退位事件の2年後,永延二年八月(988年9月),熒惑星軒轅女主に接近したことがありました。天皇・皇后ともに重い物忌みに入り,天台座主の尋禅が熾盛光法を,安倍晴明が熒惑星祭を執り行うことになりました。しかし晴明は決められた日に行わなかったために,怠状(始末書)を召されたという話が「小右記」に載っているそうです。これは晴明の失敗談として語られています。ところがレグルスはほぼ黄道上にあるので,惑星と接近することは決して珍しくないことです。火星とは2年余の周期で出会い,988年9月17日の前にも986年10月12日,984年11月21日・・・にも接近しています。晴明はこれらのことを承知していて,熒惑星祭なんぞ要らないと思ったのではないでしょうか?違勅に対して始末書だけとはずいぶん寛大な処置で,左遷降格されたようすもありません。摂政兼家は晴明の理を認め,2年前の返礼として軽い処分ですませたのかもしれません。右図でレグルスのレの字の左の星がレグルスで上の赤い星が火星です。
 その他に晴明が活躍していた頃の天文現象としては
  皆既日食      (975)
  火星大接近     (976)
  ハレー彗星出現  (989)
  大流星雨出現   (967 1002)
などがあります。皆既日食,ハレー彗星出現のことは別項でお話します。大流星雨とは「しし座流星雨」のことで,この年の記録はわが国にしかないそうです。ひょっとしたら,彼は晩年,この大流星雨が周期的に起ることに気付いていたのかも?

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