古代中国では天変は政治の上で非常に大切でした。真偽はともあれこんな伝承があります。 夏の第4代仲康のとき天文官だった羲氏と和氏が酒色に溺れ、職務である天文観測をさぼり,日蝕の予報を出さず,暦を乱したのでクビ(罷免ではなく死罪)になったそうです。天文官たるもの職務には命をかけねばならず,星空を楽しむ余裕はなかったようです。その日付は詳しすぎてかえってアヤシイですが『書経』では季秋月朔と,また『竹書紀年』では帝仲康五年秋九月庚戌朔となっているそうです,もしホントなら世界最古の日食記録です。そこで紀元前19世紀,20世紀に洛陽で見える皆既日食を探すと・・・BC2004年2月27日、BC1961年10月26日,BC1945年7月3日,BC1903年9月15日が見つかり,どれも皆既食です。それらの日の干支はそれぞれ癸丑、庚子,己巳,癸亥で,記載とは合いません。 また日食記事において「既」という文字があれば100%とはいきませんが,皆既食が起こったことを表し,部分食と区別しています。孔子(BC551年‐BC479年)が編纂したといわれる『春秋』という歴史書には多数の日食記事があります。
日食によっては皇帝自ら公文書を出し、自分の誤りを認めることがあります。その一番有名なのは、漢の第5代皇帝である文帝の場合でしょう。漢文帝二年(BC178年)の十一月に、日食が起こり,文帝は「天下治乱の責任は朕ひとりにあり。上三光(日月星)の明をわずらわすはわが不徳のなすところ!」と自己批判して,さらに民に「自分に直言極諫してくれる賢者を推薦するよう詔を出したそうです。漢文帝は中国の歴史の中でも,特に「良い」認定されている皇帝ですから,素直に「自分が悪かった。」と認めました。仲康は「俺は悪くない,悪いのはこいつだ!」ということで,天文官をクビにしましたけどね…。 |
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