夏禹商湯
  BC1953年2月末早朝,木火土金水がみずがめ座に集合した。その範囲は5°で,6000年間で最もコンパクトな五惑星の集合である。木星はやや東に離れているが火土金水は0.5°の範囲にひしめき合っているというすばらしい集いだ。日の出前の6時半ころ,東南の高度約5°という低い空に起こったイベントを眺めたのはどんな人々だっただろう。大昔のことでほとんどの民族はまだ先史時代で歴史的な記録はないが,微かな伝承として残ってはいないだろうか?
 エジプトのナイルの両岸にはすでにピラミッドが建てられ,絵文字が使われていた。その文明の光はまだエーゲ海までで,ギリシア本土には届いていない。メソポタミアでは ハンムラビもアブラハムもまだ生まれていない。 わが国では縄文時代、中国では殷の前の夏の時代になる。近年その実在性が有力視されつつある夏王朝の始まりは紀元前21世紀ともいわれ,初代は黄河の治水の指導者で伝説の聖帝 尭,舜の次に天子に推戴されたという。出典は明らかでないが,禹の時代に五星が連なり輝いたという伝承を1800年後の漢時代になって記載したという があるそうだ[6]。普段さびしいみずがめ座のこと,天変として語り継がれても上思議はない。焚書坑儒を免れた竹簡か何かでこのことを知った漢の天文官はこれこそ伝説の聖天子,禹の即位にふさわしいと考えたのではないだろうか?そして夏や周と同じく漢も五星の聚合という天命によって興ったものとして,漢王朝の正統性を主張したのではないだろうか?
 
 夏は17代王のとき商(=殷)のに滅ぼされるが,これは最初の王朝交代戦であった。例によって初代湯王は聖君で,極悪非道の夏の桀王を放伐し諸侯から天子に推されたという。この事件はBC1600年の頃といわれ,上記の漢書律暦志によると,この年に歳は大火に在ったそうだ。木星がアンタレスの側にいるのはBC1613年,BC1601年,BC1589年,BC1577年の秋から翌年夏のことである。紀元前16世紀,17世紀には5惑星聚合は起こっていないが,4惑星聚合はいくつか見られる。その中でもっとも観望しやすく人々の記憶に残りやすいものはBC1576年12月末,いて座への水星・火星・木星・土星の集合であろう。
 惑星会合は王朝交代の兆しというのは出来すぎた話で,筆者はこんな相関を主張して占星術を述べるつもりはもちろんない。夏を滅ぼした商(殷)も,商を滅ぼした周も帝の子孫と称しているし,秦は夏と同じく帝顓頊の子孫と称した。しかし黄帝に連なる五帝の子孫ではない劉氏が帝位に登るには五星聚井を正統性の根拠とする必要があって,逆に夏殷周漢の始まりをすべて惑星の大集合が起こった時期に設定したと考えた方が自然だろう。

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