さよならプルート1
作花 一志

 2006年8月24日の夜のテレビニュースは一斉に,冥王星が惑星から除外されたという国際天文連合総会の決議を伝え,翌朝の新聞にもトップに書かれていた。冥王星の地位はここ30年間も常に浮沈していた。いや30年どころか,冥王星は160年間にもわたって太陽系の外縁を賑やかしてきた。そこには数多くの天文研究者・天文愛好家が携わってきた汗と涙とそしてロマンに満ちた物語があった。

冥王星の発見

 私達の先祖は何千年も前から天体の動きを眺めてきたが,いつの頃からか洋の東西を問わず,夜空に輝く無数の星のうちたった5個だけが奇妙な動きをすることに気づき,それをplanet(惑星)と呼ぶようになった。古代ギリシア人は惑星に神々の名をつけた,といっても実はみんな生臭い神々であるが。古代中国ではplanetに当たる言葉は「五星」である。漢書には歳星,太白・・・・という語と木星,金星・・・・という語が両方使われている。日本はこれらの言葉をそのまま輸入し,平安時代の陰陽師もそのように記した。「惑星」はオランダ通詞の本木良永(1735 - 1794)の創案した訳語で『太陽窮理了解説』(1792年)で使われているそうだ。また「游星」という言葉は同じく通詞の吉雄俊蔵(1787-1843)の作ったものらしい。彼の書いた『遠西観象図説』(1823年)という西洋天文学を紹介した本には「六星(水金地火木土:筆者注)ト衛星ト併セテ十七箇コレヲ游星ト云フ」と書かれている。は『遠西観象図説』の現物で本学教授山縣敬一氏より貸していただいたものである。
 地球が惑星に加えられて,ニュートン(1642-1727)の時代には土星が最果ての惑星であった。その後ハーシェル(1738 - 1822)が1781年,全天の星の分布を調べているうちに偶然発見した惑星には天王星と名づけられた。それ以前に恒星として登録されたこともある。発見後まもなく天王星の実測位置と計算位置とが食い違うことがわかった。その原因は観測誤差でも計算間違いでもなさそうである。となるとニュートン力学は土星の運動まではうまく説明できたものの,その外は適用外なのだろうか?もしそうならばコペルニクス,ガリレイ,ケプラー,ニュートンという偉大な先人たちが築いてきた力学もここまでなのか?そりゃえらいことだ!ところがフランスのルベリエ(1811-1877)とイギリスのアダムズ(1819-1892)は事実をすべて受け入れ,かつ万有引力の法則も間違いなく,この食い違いは天王星の外にある未知の惑星の引力によるものと考えた。そしてなんとこのわずかなズレから,逆にその未知の惑星の位置や質量を予測したのだ。1846年,二人は独立にほぼ同時に計算を終了し,プロシアのガレ(1812-1910)がその方向に望遠鏡を向けたところ,まさにその位置に新惑星が発見されたのである。この新惑星が海王星であるが,単に新天体が見つかったというだけでなくニュートン力学の正しさと観測の精密さを同時に証明したものであり,科学史上非常に重要な出来事である。
 ルベリエは水星の近日点が移動していく説明として水星の内側にも未知の惑星があるかも知れないと考えて,バルカンという名前までつけていた。それを発見するには太陽面を通過するに小さな斑点を見つけるしかない。皆既日食の度にそれらしきものが見えたという報告がなされたが,予報される位置とは食い違っている。結局見つかったものは黒点や彗星だったらしい。ところがアインシュタイン(1879-1955)が1916年に発表した一般相対性理論によって,水星の奇妙な運動は説明されることとなり,半世紀に及んだバルカン探しは空しく終った。
クリックで拡大 ルベリエはまた海王星の外側にも新惑星の存在を主張した。80年間にわたって多数の天文研究者・天文愛好家がその予測と探索に携わり,さまざまな軌道要素と名称が提案された。中でも新惑星探しに最もエネルギーを注いだのはローエル(1855-1916)である。彼は新惑星と火星の運河の探索に私財をつぎ込み,私設天文台(現ローエル天文台)で亡くなる前年まで観測を続けたが,見つけることはできなかった。彼の遺志は引き継がれ,1930年になってトンボー(1906-1997)は1万枚以上の写真を撮影し,数百万もの星を調べた結果,ある新惑星を発見した。この新惑星,冥王星(Pluto プルート・・・冥府の神)の名前はローエル(Percival Lowell)のイニシアルにもちなんでいる。ここにナインプラネッツという言葉が定着し,わが国でも水金地火木土天海冥というおなじみのゴロ合わせで記憶されるようになった。